辺見庸は書く
年をとったら、ものわかりがよくなる。おだやかになる。腹立ちが減る。なにごともてきとうなところであきらめる。周りと上手にあわせる。争わなくなる。口汚くなくなる。ジョウシキというものをわきまえるようになる。そうおもっていた。だが、年はたっぷりととったのに、さっぱりそうならない。逆である。年とともに、内心がグツグツと沸騰するようになっている。世の中と、というか、世界中と、うまくおりあいがつけられない。いつもなにかを呪っている。絵空事をならべるのも、ならべられるのもノーサンキュー。風景がみんな書き割りにしか見えない。人の動作、言葉がなぜだかわざとらしい、すべてはあまりに空虚だ。
『コロナ時代のパンセ』「2016年12月」(2021年)
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わたしはこの辺見庸の述懐を額面通りには受け取れないが、物書きに限らず、そもそも芸術家とはそういうものではないのか?年を取ろうが取るまいが、年齢の如何を問わず、「世の中」と、「世界中」と、うまく「おりあい」がつけられない者たちこそが、創造する者たちではないのか?
年とともに世間知を身に付け、円満になり、朗らかになり、人を呪わず、社会に唾を吐きかけず、人生について優しく人に説教を垂れるようになったり、国家と仲睦まじくなったりしたら、それは最早「芸術家」とは言えまい。
しかし同時に、人間社会と、世界と、全くおりあいがつけられなくては、そもそも「物書き」にはなれないこともまた事実なのだ。彼は出版社とおりあいをつけなければならない。編集者を口汚く罵ることはできない。広告主と諍いを起こすことはできない。そこには必ず「折り合い」=「妥協」が介在する。
「あまりに空虚な世の中」という嘆きを、広く世人の目に触れさせるためには、「出版ー流通」という「肝心なところ」だけは、「妥協し」「目をつぶり」「折り合いを付けなければ」話にならない。
そういう意味で、辺見庸は、稀有な世渡り上手と称賛されるべきかもしれない。
エミール・シオランまた然り。
世の中と全くおりあいがつけられない作家など、ただのひとりもいたたためしはない。
ここに辺見庸を読み、シオランの本を読む「わたし自身」をも含めた、「人間であるということの恥辱」の本質がある。
ー追記ー
先日図書館からシオランの『涙と聖者』を借りたところ、今年新たに新装版として紀伊國屋書店から出版されたものであった。「グロテスク」と言っていいほどの装丁の趣味の悪さ、「暗黒のエッセイスト」なるあまりにもチャチなコピー。
ここまで自著を「冒瀆」されても、シオランは出版のために、「目をつぶり」「妥協」するのだろうか。
尤も、彼の眼が既に永遠に瞑ざされている以上、それを知る術もないが。
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